あの夜、しげはまだ知らなかった。
出会ったばかりの一匹の猫が、
自分の運命を大きく変える存在になることを。
突然の出来事
静かな部屋の中で、
すべては、ゆっくりと動き始めていた。
しげの部屋には、窓から淡い月の光が差し込んでいた。
外では風が、街路樹の葉をそっと揺らしては、どこかへ去っていく。
静かな夜だった。
しげは布団の上に座り、目の前の猫をじっと見つめていた。
ニャンリーは窓際にたたずみ、外を見つめている。
その姿は、どこにでもいる、ごく普通の猫のように見えた。
小さな体。
柔らかな毛並み。
ゆっくりと揺れる尾。
それでも——
しげには、この猫がただ者ではないと感じられた。
あの寺の境内で出会った、あの瞬間から。
胸の奥に、不思議な感覚が宿っている。
何かが、始まろうとしている。
そんな、うまく言葉にできない予感が、静かに広がっていた。
「ニャンリー……」
しげは、小さくつぶやいた。
猫は、澄んだ瞳でしげを見返した。
そして、ゆっくりと瞬きをした。
その目の奥に——
あの静かな輝きが、確かに宿っていた。
部屋の空気が、わずかに変わる。
薄明かりの中に、深い静けさが漂い始めた。
時間が、ゆっくりとほどけていく。
しげはいつしか、まどろみの中へと落ちていった。
意識の奥で、過去の出来事がぼんやりと浮かび上がる。
忘れたはずの記憶。
置き去りにしてきた思い。
それらが、淡く揺れていた。
そのとき——
さあっと、空気が流れた。
何かが、頬をなでていく。
「しげ……目を覚ませ」
しゃがれた声が、闇の中から響いた。
しげはゆっくりと目を開ける。
そこには——白髪の老婆が立っていた。
「お前は、やり残したことがあるだろう」
老婆は静かに、しかし確かな声で言った。
その手には、一本の扇子が握られている。
ゆっくりと、しげへ近づこうとする。
そのときだった。
すっと、影が前に出る。
ニャンリーだった。
しげの前に立ちはだかるように、静かに歩み出る。
老婆は、ふっと目を細めた。
そして、右手の扇子を横に払った。
空気が、わずかに震える。
「しげ——お前の命は、まだ終わっていない」
低く、深い声が響く。
「この猫が、それを教えるだろう」
その瞬間。
老婆の背後から、まばゆい光があふれ出した。
部屋全体が、白く照らされる。
しげは思わず、目を覆った。
光の中で、老婆の声が続く。
「この猫は、境界の世界へ行く」
「そして——また戻ってくる」
静寂。
「それまで、お前は静かに待て」
「やり残したことは、この猫が——」
一瞬の間。
「お前の代わりに、やり遂げてくる」
光が、すべてを包み込んだ。
そして——
気がついたとき。
そこにはもう、誰もいなかった。
ニャンリーの姿も、老婆の姿も。
ただ、静かな部屋だけが残されていた。
しげは、ゆっくりと起き上がる。
胸の奥に、何かが残っていた。
それは、不安ではなかった。
恐れでもない。
「待つしか、ないのか……」
しげは、静かにつぶやいた。
窓の外では、風がまた葉を揺らしている。
その音だけが、静かに響いている。

Sonnet 4.6